生きがいの「連柿」つくり/伊自良大実連合会 代表 佐野 敬二さん
幻の連柿づくり
幻とも言われている、65度の糖度を持つ「伊自良大実連柿」は、約400年前に近江地方から来た渋柿を接木したことから始まりました。非常に良いタンニンが採れることから、最初の300年は柿渋染の材料として使われており、約100年前から連柿がつくられるようになりました。渋みが強い分、水分を飛ばすと甘味が出てきて、多いと糖度が67度にもなりますが、実際はくどい甘みではないのが魅力です。3世代の健康と幸せを願って、3個の柿を串にさし、それを10段縄で吊るした「連」という単位で数え、ピーク時には120軒の家で約22万連が生産されていました。現在は、地区全体で「連柿」をつくる家は18軒にまで減少し、約6千連つくられています。
その中の1軒で、「伊自良大実連合会」の代表をしているのが、佐野敬二さん。親の代から「連柿」をつくり始め、佐野さん自身も勤めている頃から、1年に一度の長期休暇は連柿づくりを手伝ってきました。定年後に本格的に「連柿」つくりをはじめ、今は約350連つくっています。「今のところは満足したものができている」と言う佐野さんですが、その道のりは失敗とそこからの改良の繰り返しでした。
恥をかいて柿の木づくりに目覚めた
佐野さんの気持ちに大きな変化をもたらした出来事は、市場に「連柿」を出荷した時のこと。それまでは販売ルートも確立しておらず、生産量も少なかったため、1つのお店に一括で卸していました。ある年、余った「連柿」を持って市場に訪れた佐野さんは、他の人がつくった連柿を目にします。「うちはなんて柿を持って来たのだ。恥ずかしかった。そこで目が覚めた」と、佐野さん。「連柿」として手間暇かけるだけではなく、それ以前の渋柿づくりという基礎をしっかりやらないといけないと思った佐野さんは、土づくり、木づくりをはじめました。肥料の投入量や時期などの試行錯誤を行い、そこから理想通りの渋柿がつくれるようになるまで、12,3年かかったと言います。
25年に1度の天候で収穫量が激減
「連柿」は、まず柿を収穫した後、1個ずつ手作業で皮をむきます。家の軒先に吊るして約20日間干します。佐野さん曰く、この干して乾燥させる工程が「連柿」の味を決めます。ここを急ぐと甘味が出ず、色味が悪くなります。また乾燥させすぎると硬さが出ます。
約5年前、湿度が異様に高く白カビが発生して、例年の1/3しか生産できない年がありました。こういうことは25年に1度くらい起こると言われており、佐野さんは翌年より乾燥のやり方を変えます。自然の中で乾燥させた後に、専用の作業部屋に入れ、ストーブを使って約2日間乾燥させます。この温度や日数もその年の柿を見ながら変わります。そうすることで、カビの発生を防ぎ、理想の見た目、甘さ、硬さ、粉のふき具合の「連柿」ができるようになってきました。
天気次第では作業部屋に入れたり、また反対に作業部屋から一時的に外に出したりと、11月からは毎日「連柿」中心の生活となります。また、糖度が高くなると匂いから猿がやってくるため、パトロールも欠かせません。こうして、乾燥を終えた柿は、販売用の藁で編みなおして出荷準備を行います。佐野さんが一年で一番うれしいのはこの出荷準備のとき。「予約をしてもらうこともうれしいが、自然が相手のものだから、ちゃんと出荷できるか心配が続きます。乾燥が終わって粉がふいたのを見て、ようやく安心します」。
家族でつないでいくもの
ピーク時から大幅に減った連柿の生産量。佐野さんたちの連合会では、「連柿」をつくれなくなった家の柿畑の管理を行い、そこでは青柿の状態で収穫し柿渋として利用しています。連柿つくりは手間がかかり、また干して乾燥させるのに、ある程度の敷地と建物が必要になります。佐野さんは、「もしやりたいという人が移住してきた場合には大歓迎するが、各家庭で後継者をどう育てていくかが大事」と言います。「やれと言われてできるものじゃない」のが連柿づくり。
佐野さん自身も昔は、「歳を取ったらやめたい」と思っていたそう。でも「自分でやり出すと恋しくなる。ようここまでやってきたと思うよ。いやではできない。楽しみながらやって来られた。気づいたら生きがいになっていた」と柿の木を眺めながら笑顔で話してくれました。
一般の食用として「連柿」をつくっているのは日本でこの伊自良地区だけ。遠い未来でもこの甘さを味わえる日が続いていることを願わずにはいられません。
※2024年8月YAMAGATA BASE HPからの移管分